「桐生八木節まつり」
 上州名物八木節音頭の起源は、1500年頃、戦国時代、越後(現在の本州にある信州)の上杉謙信が関東を攻略し、その時、住民を鎮撫の政策として孟蘭盆会に盆踊りを奨励したのです。その盆踊りうたを徳川幕末の1800年頃、上州新田郡木崎宿に居た越後生まれの“おさよ”という女性が「神保広大寺くずし」という口説節を唄い始め、それが木崎音頭となり、横だろ音頭となったのです。
 明治の時代になって、外国の文明が海外から到来したため、国民の生活環境も大いに変化し、そのなかに生まれ育ったのが地方民謡です。関東一円に伝わった盆踊りうたも、新時代の流れにのって上州の名物、赤城おろしの烈風と板東太郎は大利根の激流からリズムをとりいれて上州矢場勝、野州堀込源太(本名渡辺源太郎)という馬方が桐生-足利間を荷車を引いて往来しながら唄いはやされた新曲が八木節音頭のはじまりだといわれています。
 昭和の初期、時の桐生織物同業組合長彦部駆雄氏(九代目組合長)が桐生織物宣伝のため永楽町の組合事務所前広場において八木節大会を開き、全国の織物問屋を招待して盛況を極め一大反響を起こしたのでした。以来、全国の集産地において、上州名物八木節音頭による織物宣伝をつづけてきたのです。
 特に八木節が全国的に紹介されてまいりましたのは、1970年大阪で開催された万国博覧会場におけるお祭り広場で全国民謡が披露された際、群馬県民謡を代表して、我が桐生市の八木節が参加したことに始まります。その後、テレビ出演も急増し、地元桐生まつりの中心であります八木節躍りが年々盛況となり郷土民謡八木節の名声が高まったのです。

八木節まつりの歴史
 大正・昭和時代に桐生は織物の町として繁栄しました。春から夏にかけて、市内の産業を繁栄を祝い、たくさんの祭りが催されました。1964年、これらのいろいろな祭り(商業と産業の祭り、祇園祭、七夕祭り、花火祭り等)を盛大な一つのお祭りとしました。また、仮装行列がこの祭りに加えられ、この合同のお祭りは、桐生まつりとして知られるようになり、八木節が主要な催し物になったので、その祭りは桐生八木節まつりと新たに名付けられました。これは、上州八木節(上州は群馬県地域の旧地名)の一番盛大な催し物で、全ての人に親しまれています。
 この祭りは、八月上旬の連続した三日間に行われ、夕方には、人々が周りで八木節を踊り、矢倉の上ではお囃子が、快活な八木節を演奏します。
この祭りの間、桐生の大通りでは交通が規制されるので、歩行者は、いろいろな色の七夕の飾り付けを愛で、祭りならではの食べ物を楽しんだりゲームをしたりして、通りを歩きます。
 そこでは、“浴衣”を着たり、“下駄”をはくのが習わしで、綿の上着の“はっぴ”もまた人気があります。
七夕の飾りは、太陰暦の七月の七番目の日に行われる七夕祭りの復元し、この祭りは琴座の織姫を崇めるものです。この祭りで、人々は願い事を短冊に書き、それを竹の枝に結びます。
 昔の祭りでは、手の込んだ演劇が上演され、時折、からくり人形も使われていました。これらの演劇は、市内の織物会社によって上演され、各々その優劣を競っていました。
 今では、八木節が祭りの焦点となり、数々の団体が最優秀となるべく技を競っています。
参考URL:http://www.kiea.jp/kiryu_intro_jpn.html 桐生国際交流協会 桐生の紹介より
/戻  る